霧社事件の映画。

「セデック・パレ」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=e-fbH6i_uyw&feature=endscreen&NR=1

海角七号」の魏徳聖監督が霧社事件を描いた映画。台湾では昨年公開されて、大ヒットしたらしい。製作中というニュースが聞こえてきたころからずっと待っているが、日本ではついぞ公開される気配もない。「海角七号」はあんなに話題になったのにね。

日本には、観ることができる映画と、観ることができない映画がある。
ラストエンペラー」のなかの南京大虐殺の場面のように、ある作品の大部分は観ることができるが、一部のシーンはあらかじめ観ることができないということもある。

そういう国に住んで、そういう風に狭められた視界のなかでものを観ているということを、忘れずにいたい。くれぐれも、ニッポン人の視線があらかじめ客観的で理性的だなどという錯覚に陥らないようにしたいものである。

地下大学で滔天の話をします。

告知が遅くなりましたが、来週の水曜日、7月18日に、平井玄さんなどがやっている連続企画「地下大学」で宮崎滔天の話をします。


地下大学2012夏

宮崎滔天の煩悶―明治版「左か右か」「連帯か侵略か」の分かれ道
http://www.chikadaigaku.net/

2012年7月18日(水曜日)19時〜
高円寺 素人の乱12号店(きたなかホール)
資料代500円+投げ銭(自由意思)

アナキズム」に掲載した「宮崎滔天の世界革命」をコピー冊子にまとめたので、当日ご希望の方に差し上げます(コピー代300円)。
(あ、その日来れなくても、欲しい人がいたらご連絡ください)

「南京!南京!」の映画評を書きました。

いま出ている雑誌「インパクション」182号(11月10日発行)に「『善良な日本兵』が幻想からめざめるとき」というタイトルで、映画「南京!南京!」の批評を書いています。

「南京!南京!」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=9td_3P3w1S4

「南京!南京!」は、傑作「ココシリ」を撮った陸川監督の作品。「ココシリ」よりは相対的に叙情性を押し出して、陥落から数ヶ月間の南京を舞台に、何人かの中国人と日本兵を主人公に描いた群像劇です。上にあげたのとは別の予告編で「人性的抵抗史」というキャッチコピーがあったのですが、日本軍の残酷な支配という状況のなかで、一人一人のなかの「人性」がどのように抵抗したか、あるいはできなかったかという物語だったと思います。

日本での公開がまだ実現しておらず、「史実を守る映画祭」実行委員会が1日限りの企画として、8月21日に上映を行ったものです。
http://jijitu.com/filmfestival2011/

インパクション」を書店で見かけたら、買って読んでみてください。

日本を愛して他国を憎めと教ゆる馬鹿者は誰だ?

我等は世の貧民窟の小供達が如何に立派な家に伴れて行かれても、直に「帰る帰る」と云つて、豚小屋のやうな所に帰って始めて安んずるが如く、生れ故郷に帰つて始めて安んずる底の愛郷心を有つてゐる。斯の心は純なる幼児の心で、一点の不純分子を交へぬ天真の美性であるのだ。

されば此の幼児の純なる心が即ち天の意で、それがまた聖人君子の道であり、聖人君子を慕う総ての人の道でなければならぬ。

されば我が生れ故郷を愛する心は、取りも直さず我が熊本を愛する心であり、我が熊本を愛する心は、それが直に我が日本を愛するの心であり、将た亦世界を愛するの心でなければならぬ。

咄! 我が日本を愛して他国を憎めと教ゆる馬鹿者は誰だ? 若し左様な馬鹿者があれば、それは天意人道の叛逆者でありて天の審判を以てすれば、まさに大逆罪に問はれるべき大罪人であるのだ。

斯る大罪人は、我国にもマダ多々ある。外国にも多々ある。多々あるどころか、今の世界は此等の叛逆者大馬鹿者に依つて支配されて居る。争乱葛藤の止む時ないのは、蓋し当然の理である。

されど時代進歩の風潮は、彼等叛逆者大馬鹿者に依つて奴隷若しくは闘犬扱ひにされたる多数人を揺り起して目醒まさしめた。彼等は目を刮つて起つた。而して天意人道の剣を掲げてその叛逆者なる似非人道主義者や軍国主義者に戦ひを挑んだ。戦ひは既に始まつた。勝敗の決遂に如何。

宮崎滔天「出鱈目日記」1920年8月23日/宮崎滔天全集第三巻)


アナキズム13、14号に掲載した「宮崎滔天の『世界革命』」では、滔天の思想についてあれこれ書いた。だが実は、もっとも伝えたかったのは単純に滔天の魅力である。彼の文章に直接触れてみることをお勧めしたかったのである。

上記の文章は、滔天の魅力がよく現れている一文だ。荒筋で言えば、滔天はこの文章で、故郷を愛する心は純粋な幼児の心(すなわち聖人の心)においては日本を経て世界への愛に直結していると主張している。そして、これに反して「他国を憎め」と煽る国家主義者と、民衆を「闘犬」として利用する国家群そのものを、「天意人道の叛逆者」と批判し、そうした「叛逆者大馬鹿者」に支配された世界の転覆をアジっているわけである。単純でナイーブなようでいて、読み込むと味わいのある文章である。

当時は、世界では民族自決社会主義、国内では大正デモクラシーの時代であり、滔天も「時代進歩の風潮」に期待している。だが彼が期待した「叛逆者大馬鹿者」の世界の転覆は、90年後の今も実現していない。それどころか「叛逆者大馬鹿者」たちは世界中で大量殺人を繰り返し、日本国内でも、ネット上で、書店で、街頭で、「日本を愛して他国を憎め」と大声で叫び、ときに暴力さえ振るっている始末だ。

東北関東大震災では、日本社会は近隣諸国をはじめとする「他国」の、「世界」の人々の支援を受けた。今も「故郷」は放射能によって汚され、被災者は不安な状況におかれたままだ。にもかかわらず、一時は鳴りを潜めていた連中がまたぞろ「他国を憎め」という合唱を始めたくてウズウズしているのが見える。そのためのネタはなんでもいい。無人島だろうがテレビドラマだろうが憎しみの火種になれば。もちろん、小泉・安倍政権の時代ほどには、人々もそうした合唱に追従しなくなってきている。世界的にも「奴隷若しくは闘犬扱ひ」されてきた人々の反抗が相次いでいるようだ。さあ果たして「勝敗の決遂に如何」。

宮崎滔天の「世界革命」

拙稿「宮崎滔天の『世界革命』」の後編が掲載された「アナキズム」14号が今月11日に発売された。前編が掲載された同誌13号は昨年5月に発売されている。
http://anarchism.sanpal.co.jp/item/921/
http://anarchism.sanpal.co.jp/item/653/

宮崎滔天は、有名な割にはその思想が知られていない人物である。孫文の盟友として中国革命支援に生涯を捧げた人、といった程度の認識が一般的だろう。けっこういい加減な紹介をされていることが多く、通俗本では右翼に分類されていることさえある。岩波文庫で出ている「三十三年の夢」だけでもきちんと読んでいれば、そうした誤解はありえないので、通俗本著者は滔天の主著すら読んでいないのである。

だが、通俗本でなくても、滔天がどのような思想から中国革命にかかわったのか、という点について正面から検証する文章に出会うことは少ない。たいてい、「アジア主義者」とか「アジア連帯主義者」とか「侠の人」とか、わけのわからない形容ですまされている。

「三十三年の夢」の序文にはっきり書いてあるように、彼は貧困と帝国主義を一掃する「世界革命」を目指したのであって、アジアの連帯といった地域主義的な主張を掲げたことはない。中国革命は、世界革命のための根拠地として考えられていたのである。

滔天が生涯の各時期に状況のただなかで書いた文章を読むと、そこに射程の長い刺激的な思考を見出して何度も驚かされる。そこには福沢諭吉、大井憲太郎、内田良平らによる、いわゆる「アジア主義」とはまったく異なる文脈がある。一足早く近代化をとげた日本から進歩を輸出するというのが福沢らの発想(そのためには連帯も侵略もあり)だとすれば、滔天の信念は、近代が世界的にもたらしている矛盾―階級分化と帝国主義―こそが問題であり、そのために中国を根拠地とした「世界革命」が必要だというものである。それはいわゆる「アジア主義」とは異なり、日本中心主義を免れるはずであった。実際、彼は当初、日本人をやめて中国人となってその革命に従事しようと考えたのである。

だがその彼は、結局は内田良平などの侵略主義的な潮流と少なからず行動をともにすることになる。この事実を、我々はどう見るべきなのだろうか。最後まで「世界革命」を信じた滔天。晩年(1922年没)は日本の朝鮮、中国侵略を痛烈に批判し、その結果としての日本の「亡国」をも予言した彼は、いったいこの矛盾をどう生きたのか。

拙稿「宮崎滔天の『世界革命』」は、そうした問題意識で滔天の思想の遍歴を辿ったものである。前編後編合わせて150枚とずいぶん長々しいものになったが、それでもだいぶ端折ってしまったという感が否めない。何がしか意味のあるものを書けたかどうかは判らないが、あまり紹介されることのない文章も多く引用して、宮崎滔天の思想に興味をもって頂く入り口となることは心がけたつもりなので、「アナキズム」を手にとる機会があったら、ぜひ目を通して頂ければ幸いである。

「ウォーカー」を観る

「ウォーカー」(1987年、アレックス・コックス監督)

舞台は19世紀なかば。アメリカ軍大佐のウォーカーは、聾唖の恋人と手話で語り、奴隷制にも反対する進歩的な民主主義者である。彼は、メキシコ駐在米軍の部下たちとともに、腐敗したメキシコの政権を倒すために勝手に行動する。隣国を民主化することはアメリカの「マニフェストデスティニー(明白なる運命)」と信じる故だ。彼は帰国後、民主主義の英雄となる。

その彼に目をつけたのが、船会社などをもつ資本家で「提督」と呼ばれる男だ。彼は、ニカラグアを征服しないか、とウォーカーに誘いかける。「ニカラグアの女は素晴らしいぞ」と。だがウォーカーは金や欲望のためではなく、「民主主義を広めるために」この誘いを受ける。

ニカラグアの弱体な親米派とともに、ウォーカーは首都に進撃する。アメリカからつれてきた義勇軍はならず者ばかりで略奪を繰り返す。首都を攻略したウォーカーは地元の有力者を大統領にすえるのだが、その一族の面従腹背に業を煮やして、彼らを弾圧して自らニカラグア大統領となる。奴隷制さえ検討し始めたウォーカーに直参の部下が言う。あなたが何をしたいのか分からなくなりました。信念に反するではないですか。ウォーカーは答える。「目的が手段を正当化することもある」。「目的とは?」「忘れた」。

結局、ニカラグア周辺諸国と住民たちのゲリラに追い詰められたウォーカーは、首都に火を放って撤退を計る。彼はニカラグア人たちを前に演説する。「諸君のなかには、いつかアメリカがニカラグアに介入しなくなる日が来るなどと思う者もいるだろう。だがその日は決して来ない。この国に来て支配するのが我々の宿命だ。この言葉が諸君にずっとつきまとうだろう」。演説が終わると部下たちは「我等はキリストの兵士」という賛美歌を合唱する。

「ウォーカー」は1987年公開。当時はグレナダ侵攻の4年後、ニカラグアのサンディニスタ政権を倒すためにアメリカが様々な介入を行っていた時代だ。この映画はそうしたアメリカを風刺したブラックコメディだが、ウォーカーの話は実話だそうだ。要するに、アメリカも、その「マニフェストデスティニー」もなんら変わっていないというわけだ。

民主主義と進歩の理想を信じきったウォーカーが、脂ぎった資本家の支援を受け、ならず者たちを引き連れて「現地住民を解放する戦争」に赴く。だが、言うことを聞かない現地人を支配するために、民主主義とは正反対の手段をとるようになる。確かに、アメリカの歴史にいくらでも見つけられそうなお話である。実際、時空を超えて米軍のヘリが現れて、「アメリカ国籍の人だけお乗りください」とやる最後の場面(1975年のサイゴン陥落時のパロディ)では、19世紀と20世紀があまりにも自然に接合することに、苦笑しながらも悲しくなる。

だが、これをアメリカ批判とだけ受け取って観るのはつまらない話である。というのは、ここに示されている構図は、すべての帝国主義に当てはまる定石だからだ。「ウォーカー」の世界は、明治18年(1885年)に朝鮮に渡って「朝鮮民主化闘争」をやろうとした自由党左派の大井憲太郎とか、民権派も参加した閔妃暗殺をも自然に思い出させる。日清・日露戦争大義は、「野蛮で反文明的な清・ロシアを倒し、朝鮮を独立させる」ことであったが、その結果は韓国併合であった。

帝国主義は、いかにもな悪人面で現れるのではない。いつでも民主主義とか、解放といった、それ自体は正しい文句を掲げながら進撃するのである。その進軍の先頭には、理想に燃える本物の進歩派が立っていることさえある。だから厄介なのである。

「ウォーカー」の映画としての評価は高い。音楽はジョー・ストラマーで、終始パンキッシュな、悪ふざけのようなノリが面白いが、どうもぼくとウマが合わなかった。同じコックスでも、「レポマン」は大好きなのだが。それでも、ウォーカーのような「理想主義者」を主人公にすることで帝国主義の本質を描いた点で貴重な作品だと思う。

「生きている兵隊」を読む

先日、中国映画「南京!南京!」を見てきた。
http://jijitu.com/filmfestival2011/

日本兵を主人公の一人に設定して南京事件を描いた物語だ。
有志の手で1日だけの上映が行われたもので、スペイン国際映画祭で最優秀作品賞を受賞するなど、国際的に高い評価を得ただけのことはある傑作だった。戦争映画として、東アジアの映画史に残る作品だと思う。
だが、「南京!南京!」についてはまた別の機会に書く。
今日は、その後に読んだ小説「生きている兵隊」について書こうと思う。

「南京」を観て思ったのは、侵略者としての日本兵を人間として描くこうした作品は、本来、日本人が作るべきではないか、ということだった。いつも思うのだが、戦後60年がたつというのに、日中戦争における侵略軍兵士としての経験を描いた映画がほとんどないのは、どうしたことだろうか。「1本もない」と書きたいところだが、私が知らない作品の存在を否定できないので「ほとんど」としておく。だが、アメリカには「プラトーン」「フルメタルジャケット」があり、フランスには「いのちの戦場 アルジェリア1959」があり、韓国には「ホワイトバッジ」(未見だが)があるのに、これらに比べられる作品が、日本にはない。

映画を観た翌日、そういえば南京攻略戦の取材をもとに書かれて発禁になった「生きている兵隊」という小説があったなあと思い出し、未読のままだったものを本棚から引っ張り出して読んでみた。石川達三が南京陥落の数ヵ月後に書き、中央公論で発表しようとしたが発禁となり、石川が新聞紙法違反で有罪とされた小説だ。歴史の教科書には必ず出てくる有名な作品であり、私も本棚に入れてあったが未読であった。

一読して、予想外の衝撃を受けた。すごすぎる。捕虜虐殺や略奪などをほのめかす箇所がある程度のことだろうとタカをくくっていたが、とんでもない。小説は最初から中国人青年が無造作に斬殺される場面で始まる。その後も、中国人、とくに民間人の虐殺が繰り返し描かれる。描写も直接的で具体的である。略奪や強姦(枯娘狩り。殺して金品も奪う)の話も多く出てくる。こんな小説を1938年に発表しようとしたなんて、信じられない。

たとえばこんな感じだ。

彼は物も言わずに右手の短剣を力限りに女の乳房の下に突きたてた。白い肉体はほとんどはね上るようにがくりと動いた。彼女は短剣に両手ですがりつき呻き苦しんだ。丁度標本にするためにピンで押えつけた蟷螂のようにもがき苦しみながら、やがて動かなくなって死んだ。立って見ていた兵の靴の下にどす黒い血がじっとりと滲んでいた。

そして、こうした残虐行為を行う兵士たちの内面がリアルに描写されている。感傷的な文学青年肌だがむしろ苛烈に行動する、校正者出身の平尾一等兵。傍観者的な思索にふけりながら心を使い分けて兵隊を演じる、いかにも優等生的な医大生出身の近藤一等兵。兵隊でもないくせに、スコップで敗残兵の頭を次々と割っていく従軍僧侶の片山。とくに感情を動かされることもなくフナを殺すように中国人を殺害できる笠原伍長。

こうした一人一人の個性をきびきびと描写しながら、彼らがそれぞれの個性的な道を通って、「敵の命をごみ屑のように軽蔑すると同時に自分の命をも全く軽蔑している」兵隊として、殺人も強姦も酒のつまみにして自慢する日本兵として完成していく精神的過程を、あまりにもリアルに描いている。

平尾一等兵について引用すれば、こんな感じだ。

彼の勇敢さはやや自棄的なまたは嗜虐的な色彩をおび、強いて言えば発狂にちかい勇敢さで、その裏をかえせば結局出てくるものは彼のロマンティシズムの崩壊に際しての狂暴な悲鳴であった。だがその狂暴な悲鳴もながい戦場生活がつづくならば、やがてどの方角かに妥協点を見出し、自分の気持の安定をさがし出さなくてはならない筈であった。

死んだ母親にとりすがって泣く娘の声に耐え切れず、「ええうるせえッ!」と叫んで刺殺する平尾だったが、ここで暗示されているように、小説の最後の頃にはすっかり安定した無感動な残虐さを獲得する。略奪した骨董品に中国悠久の歴史ロマンを楽しみながら。

これこそ日本版「フルメタルジャケット」ではないか。

実際、「生きている兵隊」の描写はとても映像的である。苦く寂しいラストシーンなどは、緩急のつけ方も含めてとても映画的だ。これを原作にすれば、日中戦争における侵略軍としての経験を日本人の視点から描いた、優れた作品を作ることができるに違いない。

面白いのは、石川が戦争に反対する意図でこの小説を書いたわけではないということだ。とにもかくにも、南京で見た「真実」を書きたかったのであり、ほかに何の意図もなかったようなのである。だがそのおかげで、この小説は何らかの政治的希望を排除して侵略軍のリアルそのものを描写することができた。その底には、なんというかニヒリスティックな視線がある。いやな感じだ。


フルメタルジャケット」(1987年、アメリカ。スタンリー・キューブリック監督)
http://www.youtube.com/watch?v=5voVVhel4YY
「女子供を殺すなんて簡単さ…動きがのろいからな」