小説 ドウモ真実教

ドウモ真実教という教団のお話である。
数十年前、浅墓証拠氏の指導の下、この教団はテロに走った。近所の敷地に乗り込んで、多くの人の命を奪ったのである。
背景には、教団への監視の目が強くなり、社会的包囲網が狭まる中、「ジリ貧よりドカ貧を」と勝負に出たということらしい。もちろん、結果は裏目に出る。浅墓氏ほか幹部たちは逮捕され、死刑判決を受けた。
教団は、テロの責任をとってドウモ教団は賠償を支払う。さらに警察の監視下におかれてしまった。もう自由に武器工場などを作れない。
その後、教団はアレポと改名。浅墓氏とは別の指導者を据えて、テロへの反省を掲げて活動を再開した。少しかばっておけば、彼らも彼らなりにがんばった。近所でニコニコと風船を配り、被害者遺族の子どもの学費を援助したりした。だがそんなことで殺された側の恨みはそう簡単に消えるものではない。教団は、新しい指導者の名前で、「反省している。再びテロは繰り返さない」という談話も出した。
ところがその祭壇に、いつの頃からか、あの浅墓氏の写真が掲げてあることが発覚したのである。しかもその祭壇に教団代表が祈りを捧げているのだという。
当然テロ被害者や遺族からは抗議の声が上がる。
これに対して代表は、「誤解です。私達は『不テロの誓い』のために頭を下げているのです」と弁明した。だが、テロを命じた指導者の写真を拝んで『不テロの誓い』をするのはどう考えてもおかしい。そのうえ、教団の内部文書ではこっそり『不テロ』のくだりを削除している。一般信者に対しても、「テロの話はあまりしないように」と教育し始めた。
厳重な監視下にあり、かつてのように広大な土地に武器工場などつくれない今となっては、まさかかつてのようにテロを繰り返すとは、さすがに誰も思ってはいない。それでも不気味だし、そもそも道義的に認め難い。
被害者たちはますます声を張り上げる。教団建物の前で抗議集会を開くようになった。
あのテロの頃に生まれていない若い信者たちは経緯がわからないからこれに反発する。テロのときを知っている高齢の信者は信者で、やっぱり反発する。「我々の教義では、死んだらみんな神様になるのだ。どうしてそれを理解しようとしないのだ。そもそも我々は別に悪いことをするつもりはなかった。教団を守るための自存自衛の戦いをやったんだ。浅墓先生は偉大だ。もうこれ以上、遠慮することなんかない!」
彼らの気分はそんなところで一致した。それからは、しつこく抗議してくる被害者たちの悪口を言うのが、教団建物のなかに閉じこもる彼らの毎日の娯楽となった。
教団建物の隣に住む、被害者の会代表のおばさんの悪口がいちばん楽しい。あのババアは告げ口、ゴマすりの名人だ、口は達者だけど、おれたちがガツンといえばヒイッとすくみ上がるよ、と笑い、おばさんだけでなく、その家族のことなども、あることないことあげつらって盛り上がった。彼らをこき下ろすダジャレやネタを毎日(文字通り毎日!)発表しては、修行でつかれたみんなにひとときの笑いを提供してくれるひょうきん者もいた。そんなダジャレにみんなで爆笑すると、なんだかすっきりするし、団結を確認できるし、そうすると俺たちまだヤレル、みたいな自信がよみがえってくるのだ。
巨大スーパーを経営する副代表のおっさんな、あいつはウチの敷地の駐車場を狙ってるんだよ。カードなんだよ、結局。被害者感情がどうとか言ってるけどカネがほしいだけなんだ、あいつら。
気になるのは、教団建物に土地を貸してくれている不動産屋の態度だ。この会社は、教団に理解を示してくれていた。まあ巨額の家賃を支払っているから当然なんだけど。でも最近、どうもよそよそしい。こないだ受付のお姉さんがポツリと「失望した」とつぶやいたのも気になる。いやいや、聞き間違いだったのかも。社長さんが言ったわけじゃないし、仮にあの社長も教団に冷ややかななのだとしても、それは誤解なんだから(だって教団が正しいに決まってるんだから)、丁寧に説明すればわかってくれるだろう。今は社長さんが忙しくてなかなかうちの教団の指導者に会う時間がないだけ。
心配することないよ、おれたちは正しいんだ、不当な圧力に負けるもんか―。毎日毎日、窓のない部屋のなかで「被害者の会」の悪口で盛り上がっていると、信者たちはなんだかどんどん強くなった気がしてきた。年寄りたちは、教団の昔日の栄光を語り、若者たちは目を輝かせてそれに聞き入る。そうだ、俺たちは大丈夫。俺たちは強いんだ。

だって、あんなすごいテロがやれたんだからさ。