「ウォーカー」を観る

「ウォーカー」(1987年、アレックス・コックス監督)

舞台は19世紀なかば。アメリカ軍大佐のウォーカーは、聾唖の恋人と手話で語り、奴隷制にも反対する進歩的な民主主義者である。彼は、メキシコ駐在米軍の部下たちとともに、腐敗したメキシコの政権を倒すために勝手に行動する。隣国を民主化することはアメリカの「マニフェストデスティニー(明白なる運命)」と信じる故だ。彼は帰国後、民主主義の英雄となる。

その彼に目をつけたのが、船会社などをもつ資本家で「提督」と呼ばれる男だ。彼は、ニカラグアを征服しないか、とウォーカーに誘いかける。「ニカラグアの女は素晴らしいぞ」と。だがウォーカーは金や欲望のためではなく、「民主主義を広めるために」この誘いを受ける。

ニカラグアの弱体な親米派とともに、ウォーカーは首都に進撃する。アメリカからつれてきた義勇軍はならず者ばかりで略奪を繰り返す。首都を攻略したウォーカーは地元の有力者を大統領にすえるのだが、その一族の面従腹背に業を煮やして、彼らを弾圧して自らニカラグア大統領となる。奴隷制さえ検討し始めたウォーカーに直参の部下が言う。あなたが何をしたいのか分からなくなりました。信念に反するではないですか。ウォーカーは答える。「目的が手段を正当化することもある」。「目的とは?」「忘れた」。

結局、ニカラグア周辺諸国と住民たちのゲリラに追い詰められたウォーカーは、首都に火を放って撤退を計る。彼はニカラグア人たちを前に演説する。「諸君のなかには、いつかアメリカがニカラグアに介入しなくなる日が来るなどと思う者もいるだろう。だがその日は決して来ない。この国に来て支配するのが我々の宿命だ。この言葉が諸君にずっとつきまとうだろう」。演説が終わると部下たちは「我等はキリストの兵士」という賛美歌を合唱する。

「ウォーカー」は1987年公開。当時はグレナダ侵攻の4年後、ニカラグアのサンディニスタ政権を倒すためにアメリカが様々な介入を行っていた時代だ。この映画はそうしたアメリカを風刺したブラックコメディだが、ウォーカーの話は実話だそうだ。要するに、アメリカも、その「マニフェストデスティニー」もなんら変わっていないというわけだ。

民主主義と進歩の理想を信じきったウォーカーが、脂ぎった資本家の支援を受け、ならず者たちを引き連れて「現地住民を解放する戦争」に赴く。だが、言うことを聞かない現地人を支配するために、民主主義とは正反対の手段をとるようになる。確かに、アメリカの歴史にいくらでも見つけられそうなお話である。実際、時空を超えて米軍のヘリが現れて、「アメリカ国籍の人だけお乗りください」とやる最後の場面(1975年のサイゴン陥落時のパロディ)では、19世紀と20世紀があまりにも自然に接合することに、苦笑しながらも悲しくなる。

だが、これをアメリカ批判とだけ受け取って観るのはつまらない話である。というのは、ここに示されている構図は、すべての帝国主義に当てはまる定石だからだ。「ウォーカー」の世界は、明治18年(1885年)に朝鮮に渡って「朝鮮民主化闘争」をやろうとした自由党左派の大井憲太郎とか、民権派も参加した閔妃暗殺をも自然に思い出させる。日清・日露戦争大義は、「野蛮で反文明的な清・ロシアを倒し、朝鮮を独立させる」ことであったが、その結果は韓国併合であった。

帝国主義は、いかにもな悪人面で現れるのではない。いつでも民主主義とか、解放といった、それ自体は正しい文句を掲げながら進撃するのである。その進軍の先頭には、理想に燃える本物の進歩派が立っていることさえある。だから厄介なのである。

「ウォーカー」の映画としての評価は高い。音楽はジョー・ストラマーで、終始パンキッシュな、悪ふざけのようなノリが面白いが、どうもぼくとウマが合わなかった。同じコックスでも、「レポマン」は大好きなのだが。それでも、ウォーカーのような「理想主義者」を主人公にすることで帝国主義の本質を描いた点で貴重な作品だと思う。