「Vフォー・ヴェンデッタ」

無理に邦題にすれば「Vは復讐(ヴェンデッタ)のV」とでもなるか。
近未来、独裁政権下のイギリスを舞台とした活劇。超人的な主人公が権力に反逆する―これだけ聞くと「またかよ」と食傷しそうだが、この映画は、その手のよくあるものとはまったく違う。
まず、SF的な道具立てがほとんどない。古風でロマンチック。近世ジェントリ風の衣装をまとい、優雅な言葉を操る仮面の怪人「V」と、これまた古風な雰囲気のナタリー・ポートマンが織り成す「オペラ座の怪人」ふうな、しかし奇妙な関係を軸にドラマは進む。独裁政権も、ならず者で構成される自警団や、真夜中に踏み込む官憲など、ふた昔前の南米や韓国のような古典的な姿だ。

そもそも、2020年を舞台にしているはずなのに、この映画は16世紀のシーンから始まる。
火薬陰謀事件。ガイ・フォークスという男が国会議事堂を爆破しようとして果たせなかった400年前の出来事。イギリスでは、陰謀がめでたくも未然に防がれたことを祝って、11月5日はガイ・フォークスデイと呼ばれるお祭りの日として今も継承されている。だが「V」は、この記憶の意味を反転させて人々に抵抗を呼びかける。「11月5日を忘れるな」と。

忘れるな。
そう。この映画の秀逸なところは、「記憶」こそが、権力への抵抗の根拠なのだというテーマにある。隠蔽された権力犯罪への加担の記憶、直視できなかった被害の記憶、そして取替えのきかない誰かの人生の記憶・・・そうしたものこそが、尊厳や共感といった抵抗の根拠が生じる場所であり、だからこそ権力は常に「忘れろ」と命じるということ。物語は常に、20年、30年前の記憶との出会いによって前に進んでゆく。

マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が脚本を書いているだけあって、ぐっとつかまれるような名言の数々が、観る者を思索に誘い込む。

また、途中からこの映画が、あのフランス映画の名作「Z」のモチーフを引用していることがわかる。実は昨年来、ぼくの頭にしきりに浮かんでいるのがこの「Z」の文字なのである。

軍部を後ろ盾とした反共親米政権が支配する60年代初頭のギリシャ。映画のなかで「Z」とだけ呼ばれる野党政治家(非常に地味で、しかし誠実な人物)が白昼何者かに暗殺される。学生たちが街頭で暴れるなか、一人の検事が事件の担当となる。おざなりな捜査による「迷宮入り」こそが、「上」が彼に求めていた仕事なのだが、政治的な信念ではなくただ職業的な誠実さから、彼は軍部に守られた真犯人に徐々に接近してゆく。そうしたなか軍部は民主化運動を抑えるためにクーデターを発動する。

「Z」と呼ばれる反政府指導者の暗殺事件はフィクション(モデルはあるらしい)だが、クーデターは歴史的事実である。ギリシャは70年代まで、長い軍政期と熾烈な民主化闘争を経験した。

困難な捜査を黙々と続ける検事のオフィスの外で、学生たちが叫ぶ。「Zは生きている!」と。

「Z」とは誰だろうか。それは単に反政府指導者の名前ではなく、事件の真犯人を突き止めようとする検事の「まともさ」のことでもある。権力が強いる沈黙と現実離れしたプロパガンダに同調しない社会の「まともさ」こそが生きている「Z」なのだ。

「V」の原作は、80年代にイギリスで描かれた漫画。日本語版も出ている。サッチャー政権への抵抗という文脈があったらしい。また、映画のエンドロールではストーンズの「Street fighting man」が流れる。こうした過去の抵抗の記憶が、この映画に継承されているともいえるだろう。SFとはいえ、911以降の時代に「テロリスト」を主人公とした映画を作るのは、やはりスゴイことだ。

http://wwws.warnerbros.co.jp/vforvendetta/