冷静と感情の間

今朝の毎日新聞では、竹島(独島)周辺海洋調査についての記事の見出しは
「強硬韓国 冷静日本」
であった。昨日の夕刊でもノムヒョンに「冷静に、冷静に」と呼びかけていた(「近時片々」)。
小泉も「そんなに興奮しないほうがいい」と韓国をなだめ、安倍晋三も「互いが冷静に対応することが大切だ」とコメントしている。

違和感を感じるのはぼくだけだろうか。話がさかさまになってないか。だって海洋調査という、緊張を高める行動(是非はともかく)をこれから行おうとしているのは日本のほうなわけでしょ。これではまるで、韓国が何か刺激的な行動を起こそうとしていて、それを日本がなだめているかのようだ。

しかし向こうから見たらどうだろうか。自分たちの領土・領海だと主張して、実効支配も敷いているところに、調査船を送り込んでくる(しかも「竹島の日」「靖国参拝」以後の対立ムードが続くなかで)というのだから、「挑発」と受け取らないほうが無理がある。

主権を侵害する調査の強行を指を加えて見ていることはできないだろう。また、調査を中止してほしければ6月の国際会議で海底地形の地名について提起するのをやめろ、という趣旨で日本が呼びかける「話し合い」に乗ることが出来ないのも、当然である。これは人質の論理だ。これは何も、ノムヒョン政権が反日ムードをあおりたいのだろうという話にはならない。立場を逆にしてみればわかることではないだろうか。
反対に、日本側が危機感を煽るためにやっているのでは、と考える韓国側の見方は、決して荒唐無稽な想像力とは言えまい。ぼくもまっさきにそれを考えた。

ぼくは竹島(独島)の領有権や今回の調査の是非については何の興味もない。日本と韓国のどちらがこの問題で正しいか、とかはどうでもよい。そういう時局的なことよりもぼくが気になったのは、これにかかわる報道に「この問題が、向こう側からはどういう意味を持つか」という視点がまるでない、まるで天動説の世界になっているということだ。そして、そのなかで「理性的な日本と感情的な韓国」というお馴染みの構図(宗主国意識の続きだ)がアプリオリに提起され、何の検証も疑いもなく受け入れられていること。テレビカメラはソウルの日本大使館前に行って、30人程度のデモ隊の行動を映し、「やはり韓国人は感情的になって話し合いを拒否しておるな」という信念を補強するだろう。

こうした天動説の世界に安住している限り、日本の世論はますます現実から遊離していくしかない。だが変貌する東アジアとの関係は、こうした天動説を不断に揺さぶり続けるだろう。ぼくが関心があるのは、結局その一点だ。